隠居たるもの、滑稽な追想がふと浮かぶ。もう過ぎた話だと思っていた。多くの方々が「こんなものに大金をかけやがって…」と苦虫を噛み潰し、手元に届いてまたぞろ腹わたをひと煮立ちさせたあの布製マスク、まだ続きがあったのである。「介護施設や障害者福祉施設、保育所などには残り8000万枚の配布を今秋まで継続する予定」なのだそうだ。小さなマスクをつけた、近頃すっかり人前に出てこない安倍晋三首相の滑稽な様子が目に浮かぶ。マスクを手に入れるのはとうの昔に容易になっていて、給食当番御用達のあの布製マスクをしている人を安倍首相の他に目にすることがない。というか、なかなか手に入らなかった頃だって安倍首相の他に見たことがない。これは、いわゆる「男の意地」なんだろうか?だとしたら、なんともくだらなく迷惑千万な話である。
マスク二枚の四月馬鹿
あの小さな布製マスクをつけて、「この布製マスクをみなさんに配布いたします」と安倍首相が胸を張って発表したのは4月1日エイプリルフール、あれから4ヶ月だ。「世紀の愚策」とあれだけの非難を浴び、さらには肝心のマスクだってすでに世間で流通しているにも関わらず、呆れたことに彼らはしつこく続けていたのだ。大金かけて8000万枚をもう作っちゃたし、厚労省の職員は「感謝の声も少なからず(正しい日本語に直すと「少しだけ」)いただいているし、意義のあることと認識している」と苦しい強弁をするも、もちろんのこと批判が殺到、配布は取りやめ備蓄に変更することにして事態をうやむやに丸め込もうとしているようだ。「8000」という数字を最初に目にしたとき、あの滑稽なマスクをつけ続ける首相の「男の意地」に免じて、彼用の8000枚を追加発注したものと勘違いしたのだが、こりゃあどうにもスケールが違う。軽はずみだったとはいえ、男たるもの、いったん決めたことを「間違っていた」と認めてはいけないのだろう。そして、男に従う男たるもの、その「非」を認めてはいけないのだろう。なんとも難儀な話である。
「男らしさの終焉」
ターナー賞を受賞した現代アート作家でありトランスヴェスタイト(異性の服を着る人)であるイギリス人男性 グレイソン・ペリーの「男らしさの終焉」を読んでいる。東京都現代美術館のミュージアムショップで目にし、素敵なグラフィックにも惹かれて購入した。これまでもそして今も、社会を牛耳っているのは「男らしさ」だという。そう思う。男たるもの、「強くあれ」「泣きごとを言うな」「いちど決めたことはやり通せ」「動じるな」「仲間を大切にしろ」、そして「あいつらをぶちのめせ」。「男らしさ」の要素とされるこれらは、実のところいまだ各所で実権を持つ者たちのはた迷惑な「特性」にしか過ぎない。そうじゃない男性はたくさんいるのだけれど、今だって「出世」するのはそうしたメンタリティーを強く持つ鬱陶しいやつばかりだ。その結果はどうだろうか?「例えばそれを熊本の豪雨被災地に回すことが出来たらなあ」というほどに費用がかかった布製マスク、ほとんどの人が「いらない」って憤る布製マスク、それなのに撤回することすらできないんだもの…。頭も悪くて、なにしろカッコ悪い。
「弱くなる権利」
グレイソン・ペリーは、短絡的かもしれないが、「世界中で男性が犯罪を起こし、戦争を始め、女性を押しやり、経済を壊滅的に破壊している」という。「男らしさ」に支配されたままだと世界はとんでもないことになる、男性が「論理的」で女性が「感情的」というのも眉唾だ、ともいう。確かに、米国のトランプ大統領はこちらが恥ずかしいほどに「感情的」で怒りっぽい。ヒラリー・クリントンの方が明らかに「論理的」であった。この新型コロナ禍、わかりやすく「男らしさ」を誇る人がトップに立つ国は大変なことになっている。米国、ブラジル、ロシア…。もう飽き飽きしたって感じ?それに引き換え、羨ましいほどの対応がなされた台湾、ドイツ、ニュージーランド、それらは知的な女性が治める国だ。気候変動についてだって何をか言わんや…。都合の良い数々の「定説」は、実のところ卑怯な「嘘」でしかなかったことが明らかだ。グレイソン・ペリーは、新しい「男性の権利」マニフェストのひとつにこう掲げる。「♦️弱くなる権利」。そう、柳に風さ、しなやかにになろうじゃないか。そこそこ大きな会社ってえのは、いまだ典型的な「男らしさ」が支配する社会だったりする。つい毒気にあてられて、今からすると「あいつには申し訳ないことしたなあ」と思うことも多々あった。だからさ、もうね…。ああ、もうすぐ隠居の身。こちとら、それも含めて明日で引かせてもらうことにするぜ。