隠居たるもの、年月数えて足りない指を折る。久しぶりに大阪に出向いた。どれくらいぶりになろうか、探しあてた写真の日付は5年前、2019年10月5日となっていた。悲しいことにその年の6月にガンで逝ってしまった友だちがいて、彼を「偲ぶ会」が梅田で催されることになったから、予定していた瀬戸内国際芸術祭鑑賞旅行をそこに合わせ、一晩だけ立ち寄ったのだった。しかし、夕刻に着くなりすぐさま会場に直行し、2次会が解散した後も寄り道せずホテルに宿泊、そして朝に起きるなり岡山経由で香川に向かったから、そこには「旅情」といった類のものが残っていない。
2024年4月17日、大阪に出発する道すがら、東京15区つまりは江東区の衆議院議員補欠選挙のポスター掲示板の前にたたずみ、私は想い起こす。(それにしても一人を除いて魑魅魍魎ばかりがずらりと並び心底からおぞましい。あくまで個人的感想であるが。)「2泊3日、これほどの時間をとって大阪に滞在するのは中学高校サッカー部同級生の結婚直前旅行につきあったあのとき以来か、だとしたら…、それって30年以上前?」デジカメなどなかった時分のことだ、日時等の詳細を容易に検索・確認できる写真はスマホの中には存在しない。
大阪の海は 悲しい色やね
大きなスーツケースを抱えたインバウンド客で東京駅はごった返していて、なんとも身の置き場がない。東京10時00分発のぞみ221号新大阪行きもほぼ満席。指定された席の真上の網棚は、この車両のどこかに座っているであろうインバウンドさんのスーツケースにすでに占領されていた。リュックサックを仕方なく足元に置き、空いている隣席が品川と新横浜を過ぎてもそのままだったら移動させようと算段する。しかしその目論見は早々にはずれ、三菱商事勤務と思しき青年が品川駅から乗車してきてその座を占める。そしてひと息つく間も惜しいのか、座席前のプラスチック製の折りたたみ式テーブルをおろすなりノートパソコンを開いてバリバリと仕事を始めた(横目で資料を盗み見て三菱商事勤務と推測)。
仕事が一段落したのか今度はガサガサと弁当を広げる。現地でのアポイント前に腹ごしらえを済ませておこうという魂胆だろう。サバの塩焼きがのった海苔弁から強烈なサバの匂いが発する。さっさと平らげればいいのに先方での仕事の確認でもするのか、いちいちスマホを取り出して食事を中断するものだからいつまでもサバの匂いが漂い、私の旅情は撹乱される。同行者2人はそれぞれ別の便、スマホアプリのスマートEXで予約した格安11,000円のこだまのグリーン車、はたまた65歳になったら正会員になれる「大人の休日倶楽部」の特典30%割引ひかりで大阪に向かっておられる。LINEで連絡を取り合ったところ、存分にゆったりできているという。時間だけはあるのだ。旅に出るとするならば、のぞみは避けた方がいい。スピードとか効率はインバウンドさんと市場経済に翻弄される「現役」に譲っておけばいい。名古屋を過ぎてようやくサバの匂いが気にならなくなった頃、私も東京駅で買い求めた奥ゆかしい駅弁「深川めし」を開く。そして車窓を眺めながら、なぜか上田正樹の「悲しい色やね」を口ずさむのであった。
にじむ街の灯を 二人見ていた
昨春のWBC日本ラウンドの際、ダルビッシュがチームの結束を高めるために催した焼肉食事会の会場になったという明月館で、着いた17日の夜、在阪の大先輩たちに囲まれ焼肉をつついた。私は、バカボンのパパが通っていたバカ田大学の校歌に「都の西北 早稲田のとなり のさばる校舎は われらが母校」と歌われた、その都の西北の学校の卒業生で、そこに「集まり散じ」た在日コリアンの同窓会の世話役をしている。この来阪は同窓会の「仕事」の一環で、今現在に会長と副会長を務めておられる先輩2人とともに、新型コロナ禍以来、「在阪同窓生挨拶回り」に訪れたというわけだ。
翌18日も、この春から京都の大学に准教授の職を得た後輩の「就任祝い」も兼ね、集うメンバーを変えて梅田で一席設けてもらった。ふた晩こうして遊んでみると、大阪は相も変わらずにぎにぎしい。ではなぜ上田正樹の「悲しい色やね」が浮かんでくるのかというと、この曲の作詞家が康珍化だからだ。今回おともさせていただいた、私よりひとまわり上の先輩である会長から「康珍化は学生時代もあまり集まりには顔を出さなかったけどな」と聞いたことがあった。小泉今日子のアイドル時代の楽曲も多く手がけた康珍化は、会長とほぼ同年代で、私と同じ文学部に通っていたのであった。
Hold me tight 大阪ベイブルース
夜の宴席が主眼の旅とはいえ、日中もただ無聊をかこっていたわけではない。例えば18日は在阪の先輩に大阪コリアタウン歴史資料館にご案内いただいた(その先輩は資料館の理事を務めておられる)。駅で待ち合わせ、放っておかれたら間違いなく表通りにたどり着けない迷宮のような商店街を抜け、コリアタウンを目指す。ここを訪れるのは40年ぶりくらいになろうか、ひっきりなしに人が行き交う観光地になっていて驚いた。会長も「グリコの看板のとことかさ、街中は主にアジアからのインバウンド客ばっかりなのに、ここは反対に日本人しかいないねぇ」と様変わりした街に感嘆しておられる。
河はいくつも この街流れ
忘れ得ぬ店が二つある。ひとつは鶴橋商店街の中、まだ陽が高いうちから酒を飲んだ串ホルモンの大成屋。カウンターの向こう、目の前で大将が焼いてくれる。メニューのありかを尋ねる私たちに、柔らかい大阪弁で「適当に焼いておくから」と大将が応じる。なにやらを書き記したメニューなどないのである。供するのはホルモンの串焼きとセンマイ刺しとキムチと酒のみ、一人で切り盛りする大将と客の阿吽の呼吸で成立し、ホルモンを頬張りビールをひっかけてさっと立ち去る小さい店。渋い、ぜひとも近所にほしい。
https://place.line.me/businesses/41732672
もうひとつは宿泊したホテルの近くにあった音楽バー、レトロバー レト。こうした店を探させては右に出る者がいない5歳上の副会長が見つけた店だ。1日目は3次会で、2日目は4次会で、ふた晩続けて通った。ぴたっと私の好みにハマる音楽を聴いて、濃厚に推移した1日をゆっくりと締めくくる。また大阪に行く機会があるならば、心斎橋の同じホテルにまた泊まり、東心斎橋にあるこの店にまた通おうと思う。
みんな海に流してく
4月19日、10時48分発の新幹線で大阪を離れ、名古屋で特急しなの11号に乗り換え、車窓から木曽の絶景を眺めつつ松本に向かい、いつもと同じ大糸線でつれあいに落ち合い、15時50分に白馬に着いた。桜がぴたりと満開だった。
今シーズンの締めくくりは五竜&47スキー場、ゲレンデに立つのはこれで43日目、こちとら初老にさしかかった身、それにしてもよく滑ったもんだ。予期せず3月にたっぷり雪が降ったもんだから、今シーズンはこうして4月までそこそこ楽しむことができた。
そして明日25日からは、来シーズンのシーズンリフト券代を稼ぐため、ここ数年恒例としているアルバイトに従事する。だから一月半ほどこのブログはお休みさせていただくのだが(再開は6月10日あたりを予定)、その間に私は還暦を迎える。ああ、もうすぐ隠居の身。これでようやく「一人前」になれる。