隠居たるもの、すっくと新たな道具の上に立つ。「何年かに一度」、毎年恒例どうにも聞き飽きた(もはや欺瞞的ともいえる)フレーズとなってしまったが、そんな大寒波なのだそうだ。2021年12月26日、ここ白馬でも昨晩から深々と雪が降る。ときおりその雪が横殴りになる窓の外は−9℃。なにもコンディションが悪い日をすき好んで選ぶ必要もないから、ゲレンデには繰り出さず薪ストーブの前でぬくぬく暖まっている。戸外で済ましておきたいことは昼食前に終わらせた。はたして一体それはなにか。せっかくの雪だから、スノーシューをおろしてみたかったのだ。
犬は喜び道かけまわり
徐行して通り過ぎる自動車をときおり見かけるものの、道に人は歩いていない。雪降るそんな中、私たちがなぜ道ばたを歩いていたのかというと、昨日12月25日から運行が始まった各スキー場からのシャトルバス停留所は昨冬同様の位置で間違いないか、そして何時に迎えに来てくれるのか、それらを自分の目で確認するべくほんの少しの散歩に出たからだ。途中、明るいスキーウェアに身を包んだ女の子とともに現れた犬が、飼い主以外の「人間」を見るのが今日にかぎってはよっぽどめずらしいのか、私たちに気づくなりじっと動かなくなり、こちらを凝視する。困りながらも朗らかに笑う少女と挨拶を交わし、ご一行の雪中散歩の支障にならないよう急いで遠ざかる。雪がひどくならないうちに帰って、スノーシューをおろしてみたかったのだ。
TUBBS SNOWSHOES est.1906
東京は神保町の石井スポーツで目にしたのはこれだけだったし、白馬の好日山荘に置いてあるのもこれだけだった。だから好日山荘にワンセットだけ残っていたこれを買ってみた。そういえば、北欧系アウトドアショップFULLMARKS白馬店の店長は、「今アルミが品薄なんで、スノーシュー製造できないんですよ。だからあんまり出回らないんですよね」と言っていた。よく見ると、私が買い求めたこのスノーシューにはアルミがあまり使われていない。それはつまり「強度や重量を含めてスペックが劣る」ということなのかもしれない(以前に見たことのある高スペックのものに比べ値段もずっと手頃だった)。しかし私が考える用途にはこれで十分お釣りがくるはずだ。13年くらい前になろうか、一度だけスノーシュートレッキングをしたことがある。スノーボードに訪れ宿泊したホテルのアトラクションツアーに参加してみたのだ。梱包をとき、その時を思い出して構造を確認する。今日こそスノーシューをおろして、すっぽり雪に埋もれた庭を闊歩してみたいのだ。だってそこに「自由」があるように思えないか?
獣の足跡をたどる
説明書なんかない。少しだけ手間取ったけれども、ほどなくして装着の仕方も発見する。ウッドデッキにうずたかく積もったひと山を超えて庭に下りる。当たり前だけど、スノーシューは雪に沈まない。楽チンである。「そうか、かかとが浮くような構造になっているのは、歩行の動作にによる重力移動を逃して、スノーシューの前方が雪に沈むのを回避させるためか」などと浮力を確保する仕組みに感心しながら雪に埋もれた庭を自在に闊歩する。そしてスノーシューなしには到底たどり着けない、庭の奥の「獣の足跡」をたどってみる。
どうやら狐がうちの庭の端っこをお気に入りの「バイパス」にしているようなのだ。ぎりぎりうちの敷地の隅の隅をトイレにしてもいる(おかげさまで植物がよく育つ)。昨冬も雪の上に足跡があることは気づいていたのだ。この冬の雪の上にもすでに同様のものがくっきりとある。スノーシューで近づき観察する。やはり庭の端っこをすうっと横切ってやがる。しかしよく見ると、そこから分岐する一筋もある。スノーシューでたどって行くと、なんとそれは初夏に完成した外回廊にばっちりアクセスしているではないか。さてはこの野郎、ちゃっかり「雪やどり」してやがったな!うまいことやりやがって…。それにしても昨冬はこの雪囲いがなく、恐ろしいことにライフラインが雪の脅威にむき出しで晒されていたのだ。くわばらくわばら…。どれだけ雪が降ろうとも、狐ともども、もう不安はない。
スノーシュー履いて、雪にすっぽり埋もれた庭を闊歩する
スノーシューを履いたまま反対側に回り(というかスノーシューを履いていないとそちら側には一歩も足を踏み入れられない)、少しずれていた、建物に立てかけるだけの構造になっている雪囲いの位置を直した。そして昼食を済ませ、降りしきる雪を窓に眺めながら、薪ストーブの前でぬくぬく暖まっている。明日は月曜日だし、雪だとしてもシャトルバスに乗ってゲレンデに出かけてみよう。ああ、もうすぐ隠居の身。そして「狐の恩返し」については気長に待つことにする。