隠居たるもの、どのみち電波塔に吸い寄せられる。2022年10月8日に放送されたNHK「ブラタモリ」、テーマは「東京スカイツリー〜なぜここにスカイツリーは立っている?〜」だった。日々にスカイツリーを眺めながら暮らしている、興味がなかろうわけがない。しかしそれは後に録画で楽しむこととして、私は昼から始まる一日仕事にいそいそ庵をあとにする。行き先は東京タワー。中学高校サッカー部OB会の、いわゆる「総会」が催されるからだ。道をはさんだ東京タワーのふもとに、私たちが通った男子校はある。だから私たちは「公式行事」っぽいものを東京タワーが見える場所でやりたがる。4年に一度であれば尚更だ。
プラッシーを飲みながら東京タワーを眺めたあの日
例えば土曜日なんか午後中ずっと5時間近く練習をするからヘトヘトになる。それに加えてかつては「水を飲むことは御法度」な時代だったから、練習直後は脱水症状寸前でどれだけ水を飲んでも追いつかない。すると先輩から「買い物」を命じられる。学校の近くにパン屋と米屋が並んでいて、その両店で先輩たちから取りまとめた「コーラ3本、チェリオのグレープを3本、オレンジを2本、プラッシー4本(すべて500mlのホームサイズ瓶)」を買い求め、ふたりくらいで抱えて帰る。自分たちの分のジュースと、回収して返却する瓶代がお駄賃だ。何をするでもなく夕方の校庭でジュースを飲みながら東京タワーをゴロゴロと見上げているうちに、あたりは少しずつ暗くなる。ライトアップなんかない時代、所定の時間になると東京タワー本体のライトがパッとつく。その瞬間を待っているのだ。それを見届けるとなぜか重かった身体が少し軽くなる。そして誰かが「さて」と口にする。それを合図に腰を上げ、それぞれの教室に戻り帰り支度をして三々五々学校をあとにする。私たちはそんな風にして、すぐそこに聳える東京タワーを日々に眺めていた。
W杯の年にサッカー部OBは東京タワー近辺で集う
それにしても悩ましい問題ではあった。1967年に同好会として出帆したサッカー部の歴史は55年、私は初代から数えて15代目、長らくサッカー部OB会の世話役をおおせつかっている。そのサッカー部OB会、この20年というもの慣例としてわかりやすく4年に一度、W杯の直前に全世代が集まる「総会」を開催してきた。アル=ホールのアル・バイト・スタジアムで2022年W杯カタール大会が開幕するのは11月20日、ならば「総会」は10月が最適、そろそろ準備を始めるかという矢先の「新型コロナ第7波」…。本当に悩ましい問題であった。
母校の同窓会大会は早々に3年連続の中止が決定された。しかしW杯が中止になるわけでもないのに私たちフットボーラーが「総会」をあっさりと中止にするのは癪に障る。若いもん何人かを呼びつけてどうしたものか考えた。酔っぱらった末に出された結論は「大っぴらに人が集まるのははばかられる、だから集まりづらくしてそれでも集まる」だった。
パンチングメタル越しの母校
「感染対策のため会場は屋外、2次会が深夜に及ばないよう時間帯は昼日中、都心では難しいかもしらんが、まずはそんな条件で探してみよう」と険しい顔をしていたら、若いもんがいとも簡単にこれ以上ない200点満点の答えを用意する。「東京タワーの足元に建つフットタウンの屋上に10月10日まで営業するビアガーデンがあり、10月8日の昼なら貸切にしてくれるそうです」雨天でもタープが張り出すから大丈夫だという。なにはともあれ東京タワー、即決である。しかし当然のこと好天に越したことはなく、前日はひどい雨でいささかハラハラする。しかし日が変わるやお互いの日頃の行いを讃えあいたくなるほどの日和、屋外でビールを飲むには最高の陽気となった。7階に相当するフットタウンの屋上から、パンチングメタル越しに母校がくっきりと見えている。「学校に寄ってみたら現役の子たちが練習してたぜ」と何人もが興奮しながら会場に現れた。
2002年W杯日韓大会を語る
年齢の高い先輩方は当たり前に参加を躊躇されただろうし、呼びかけはあえてFBとLINEだけに絞ったし、予期した通り参加者はぐっと少なかった。しかし練習途中に顧問の先生が駆けつけてくれたし、土曜の日中だから子ども連れもOKにしたし、寂しい感じはしなかった。いつもは会の運営に追われてゆっくりすることができなかった私も、30歳以上離れた後輩たちとじっくり話ができた。「あそこにいる同期の奴とな、抽選で当たった新潟のアイルランド対カメルーン戦、鹿島のドイツ対これまたアイルランド戦を観に行ったんだ」2002年W杯日韓大会の話だ。どんなに歳が離れていようと、私たちには共通の話題がある。ドンドコドコドコ、音はすれども踊りながらやってくるから一向にスタジアムに到着しないカメルーンサポーター、ドイツ相手に引き分けて熱狂のあまり夜通し飲んで、翌朝に私の勤務先前の電信柱に寄りかかってゲロを吐いていたアイルランドサポーター、当時まだ幼児であった後輩たちは、そんなエピソードを笑いつつW杯に想いを馳せていた。
午後4時半に「総会」を終えた。東京タワーの足元に降りてみると仮面ライダー1号がすっくと立っている。彼が見据える先にある母校では、後輩たちが東京タワーを見上げながら練習を続けている。もしショッカーが現れたら真っ先に他愛もなくやられるに違いない、久しぶりの再会にご機嫌となったサッカー部OBの面々は、「なんかあったら、あとは頼んだぜ」と仮面ライダーに声をかけ、増上寺を抜けて大門方面に2次会に繰り出した。
かつてのオッサンとかつての子ども
1977年、中学に入学してすぐにサッカー部に入部した。中高一貫の学校なので、サッカー部の最上級生は高校2年生(当時は高2の秋で部活を「引退」するのが慣例だった)。中学1年生からしたら、無精髭も生えていればすね毛もボウボウ、ずっと運動部にいるわけだから体もガッチリしていて恐ろしいほどに「オッサン」だった。たまに部活に顔を出す高校3年生や、コーチにやってくる大学生のOBたち、そんな先輩たちも含めていっしょに東京タワーの下でサッカーをした。1981年、高校2年で最上級生となった。キャプテン翼に憧れてサッカー部に入部してくる中学1年生たちは「毛も生えてない」子どもに見えた。先輩たちにならって高校3年になっても大学に入っても顔を出し、東京タワーの下で子どもたちに「オッサン」の恐ろしさを見せつけた。午後10時まで続いた2次会に集ったのは、結局この面々だ。
東京タワーのビアガーデンを即座に見つけた功績を称え、世話役は17歳年下の後輩にバトンタッチした。翌朝、いつも手伝ってくれる私が高校2年生の時の「毛も生えていない」中学1年生の後輩に、「無事に帰れたか?」と連絡すると「昨晩は記憶も携帯もなくさずに帰れました」と返信があった。あとは数日待って、誰も新型コロナに感染しなかったことを確認するだけだ。ああ、もうすぐ隠居の身。私たちはどのみち電波塔に吸い寄せられる。