隠居たるもの、来(きた)るものは拒まない。Facebookで「定年で退職するってよ」などと桐島ばりにご挨拶したところ(もちろん「桐島、部活やめるってよ」へのオマージュ)、先輩、後輩、友人、同僚、それはそれは様々な方々からねぎらいのお声がけをいただいた。その中に30歳ほど年下になる大学の後輩からのメッセージがあった。何を隠そう、ヴェネツィアで面倒を見てもらった彼女だ。(参照:「比類なき異国情緒 ヴェネツィアへ」https://inkyo-soon.com/venezia1/)彼女は「落ち着いたら、また遊びに行きたいです」とも付け加えてくれた。私はこう返信する、「落ち着くことは当面ないから、公園で少人数のピクニックとか、そんな工夫して私たちは友達と会っている」と。8月15日の夕方、私たちは木場公園でピクニックすることにした。

蝉時雨と夕刻の光

夏の屋外で飲むものといえばビールと相場が決まっている。待ち合わせをした東京都現代美術館から馴染みのクラフトビール屋フォークウェイズ ブリューイング(参照:「古い町の新しいお店:清澄白河 Folkways Brewingの巻」https://inkyo-soon.com/folkways-brewing/)がほど近い。小さなクーラーバックを持参し、クラフトビールのテイクアウトと洒落込む。つれあいがいくらかつまみの用意をしてくれたが、足りない分を公園入口の目の前、ハンバーガーが自慢のFieldで調達する。5時も過ぎれば和らぐものとの考えは安易だったようで、まだまだ暑い。また、必要とあらば音楽もかけようとBluetoothスピーカーを抱えていたのだけれど、セミたちが「我が世の夏」を謳歌していてそれどころじゃあない。とはいえ、私たちはこんなご時世における彼女の近況を知りたかったわけで、せっかくだからと友だちと現美で「オラファー・エリアソン展」を観覧し、お昼には特盛海鮮丼を食べにバスに乗り、暑いからと休憩でカキ氷を食べたと元気に話すその様子や、在宅勤務が中心になる前のこと、新型コロナウィルスがヨーロッパを席巻し始めたころに、フランクフルト空港でオロオロする上司を無事に日本に送り帰し自分はベルリンに戻った国際感覚豊かな活躍譚なんかを聞くにつけ、とにかく持ち前のものを発揮して生き生きと暮らせているようだと安心したのだった。その頃にはすっかり陽も落ち、いささかは気持ちの良い風が吹き始める。

後悔はしていないけれど、とても反省している

7月10日のことだ。私の「定年退職」に向けた仕事が大きく一段落したその日、新しい友だちができた。解放感に浸って控えめに外食し、最後に一杯だけと立ち寄った店でイギリス人と日本人のカップルに出会う。つれあいが着用していた、もとは私のものだったイギリスのテクノグループUnderworldのTシャツを見て、イギリス人の彼が問いかける、「What?」これこれこういういわくのTシャツだと片言の英語で説明をしたところ、どんなバンドが好きなのか、どのバンドのライブが今まで見た中で一番良かったか、そんな音楽談義に花が咲く。彼はとても音楽好きなんだけれど、どうやら今現在まわりに話が合う人がいないようで、私と趣味が似通っていることや、ちょっとした道をはさんだ近所に暮らしていることなどが判明するたびに感極まるほどに喜んだ。気持ちはわかる。そんな彼を残してこちとらも一杯で退散するわけにいかない。最初は握手すらしないように肘を当てることで示していた親愛の情が、酒が進むにつれて怪しくなり、結局はひとまわりほど年下だった彼に「Aniki(アニキ)〜」と肩を組まれるはハグされるは…。来るものは拒まず、なるならなるであっという間に10年来かと思しき友だちとなるのが私の特質だからして、今さら後悔をしているわけではない。しかしこのご時世、初対面の人間とあそこまで無防備に濃厚接触してしまったことはいただけない。コモンセンスのある人たちだったから大丈夫だと都合よく自分を納得させつつも、とにかく深く深く反省した。彼らもきっとそうだったに違いない。それから2週間、私たち夫婦は頑なに人との接触を避けざるを得なかった。我が庵で、彼とゆっくり音楽を語りあえる日が早く来るといい。

8月15日に歳の離れた人どうしが語り合うこと

私は「自粛」をしているわけではない。知りうる限りで状況をわきまえて、そこから判断できることを「行いや態度」に反映させ、「今までしていたことを考えもなく同じようにはしない」ように心がけている。今回の深い反省を踏まえつつ、選択肢だって積み重ねる。蚊にやられた何箇所かが痒く疼くが、屋外で少人数で語らうのはなんとも楽しからずや。そして、奇しくも昨日は8月15日。歳の離れた者どうしが語らうべき日ではないか。阪神・淡路大震災の後に神戸に産まれた彼女に、私は1923年9月1日の関東大震災の話をしていた。私は被害が甚大だった墨田区で育ち、子供の頃に地域の年長者から許されざる悲惨な情景を何度となく聞いている。それに反して、「自警団」によるどさくさまぎれの「朝鮮人虐殺などなかった」と今になって振る舞う者たちがいる。東京都で一番偉いはずのあの方がその最たるものだったりするから尚更に始末が悪い。人心が極端に走りやすい今だからこそ思い起こすべきことではなかろうか。「あるものはあり、ないものはない」私との会話が、後輩が自分で判断するためのきっかけになればいいと思う。

夏の夕べの楽しい2時間だった。暑かったことも、後にはきっと面白おかしく想い出すだろう。「来(きた)るものは拒まず」とは「心を寄せて近づいて来る者は、どんな者でも受け入れる」という意だそうだ。それでは「去るものは追わず」か?そっちはたまに追うこともある。ああ、もうすぐ隠居の身。また遊びにおいで。

投稿者

sanshu

1964年5月、東京は隅田川の東側ほとりに生まれる。何度か転宅するが、南下しながらいつだって隅田川の東側ほとり、現在は深川に居を構える。「四捨五入したら60歳」を機に、「今日の隠居像」を確立するべく修行を始め、2020年夏、フライングして「定年退職」を果たし白馬に念願の別宅「散種荘」を構える。ヌケがよくカッコいい「隠居」とは? 日々、書き散らしながら模索が続く。 そんな徒然をご覧くださるのであれば、トップにある「もうすぐ隠居の身」というロゴをクリックしてみてください。加えて、ホーム画面の青地に白抜き「What am I trying to be?」をクリックするとアーカイブページにも飛べます。また、公開を希望されないコメントを寄せてくださる場合、「非公開希望」とご明記ください。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です