隠居たるもの、ことりの来訪を待ち侘びる。窓の外を見やって文字通りの小鳥を探しているわけではない。東京は江東区 森下に私たち夫婦馴染みの「ワインとお料理 ことり」という店がある。2024年3月5日、スノーボーダーであるその店の大将が、白馬に一人でやってくる。予約した宿泊先は散種荘にほど近い、いつも私たちが温泉につからせてもらっているホテルだという。「ならば夕食を共にしようじゃないか」「すべて込みのお得なツアーで取ったものだから残念ながら夕食もついていて」「ならば食後の酒をうちで一緒に飲もうじゃないか」「いいすか!それじゃあ美味しいロゼを持ってうかがいます!」というやり取りを経て、私たち夫婦は美味しいロゼとともに彼がやって来るのを待っている。

ひな祭りの宵に大雪が降り出す

松本6番線ホーム JR大糸線 14時09分発 南小谷行き、このところ私たち夫婦はこの便を使う。3月3日この日はなにやらトラブルがあったらしく、車両も入れ替えられ出発も定刻に遅れている。しかも直通のはずが信濃大町で乗り換えを要するという。それだけでなく、これまでとどこかしら空気感も異なる。インバウンドさんがめっきりと少ない。10分ほど遅れて16時ちょうどくらいに白馬に到着すると、駅前ロータリーのタクシー乗り場に2台が客待ちしている。ついこの間まで、白馬中のタクシーたるやインバウンド客からの予約で四六時中かけずり回っていて、手持ち無沙汰に駅で客待ちする車など1台もなかった。フェーズとでもいうべきものが変わったのだ。ならば、スーパーで食材の買い物をし、また駅まで下りてきて、ここに止まっているタクシーに乗る、通常時のルーティーンに戻そうと考えた。予約しないでタクシーに乗るなんて、ここ白馬では11月以来のことになる。

「今さらこんなに降るなら2月に降っといてくれ、って感じスよね」フロントガラスに舞い落ちる大粒の雪を眺めながら若い運転手が朗らかにぼやく。白馬のタクシードライバーといえば「70歳がらみの高齢男性」が相場だから、パーマをあて髪をカールさせた彼は新鮮だ。結局のところ、私たちはスーパーから電話してタクシーを呼んだ。買い物している間にとてつもなく雪が降ってきたからだ。すぐにやって来た彼から留守にしていた間の白馬の様子を聞く。若いだけあってオージーに向けたフェスの事情にも通じている。「そりゃあ酒も入って大騒ぎでしたよ。オージー同士なのかわかんないスけど、でっかい白人が取っ組み合いの喧嘩してるのも見ましたしね。夜のライブ会場に歩いて行くのに、途中で寒くなっちゃったんスかね、通りかかる日本人の車止めてヒッチハイクしようとしている連中もいたりして、ハハ。まあそのフェスも終わって、昨日の土曜日にオージーは大挙して帰っていきましたけどね」やはりフェーズとでもいうべきものが変わったのだ。だからといって雪はやまず一晩降り続き、重くなった玄関をなんとか朝に開けてみると50㎝ほども積もっていた。

ことりの大将は長野駅でダッシュする

「新幹線は長野駅8時3分着なんですけど、ダッシュすれば8時5分発の白馬行き高速バスに乗れますかね?少しでも早くから滑りたいので」とことりの大将が無茶なことを言う。「残っているか」とすら心配したところにもってきてこの雪だ。気持ちはわかる。とはいえ、こちとら初老にさしかかった大人である。煽ることなく「それは難しい、と思う」と答えておいた。それがどうだ、3月5日の朝、「8時5分のバスに乗りました!」と高揚したメッセージが届き驚かされた。あと2ヶ月もしたら還暦を迎える私からして彼は10歳ほど年下なわけだが、今もチームに加わって普段からサッカーをプレイするなど、なるほどまだまだ身体がピンシャカしている。私たちも慌てて準備を進め、近くの停留所を9時に出るシャトルバスに乗り込み、五竜エスカルプラザに到着する彼を待ち受ける。彼にとっては初めてのスキー場、それぞれの特徴を含めてコースを案内するのが私たちの役目だ。

Valentin Valles(ヴァランタン・ヴァルス)のロゼ

その夜、ことりの大将は散種荘に「ロゼは今これが一番おいしいです」と、Valentin Valles(ヴァランタン・ヴァルス)のロゼを持参した。フランスはローヌのワインだそうだ。私たちが深川に居を構えたのは22年前の2002年。そのころ彼は、森下で90年以上にわたって営業を続け愛される、下町の名大衆酒場 山利喜で店長をしていた。聞くと彼は、家にお客さんが来ると必ず映画「男はつらいよ」を流してもてなした親御さんのもと葛飾は柴又で育ったそうだ。そして「大学生のときに友だちに声かけられてアルバイトで入って、卒業してそのまま山利喜に就職した」という。以前にはその「山利喜の店主の命を受けてワインの勉強をした」とも聞いた。それから満を持して2016年10月、山利喜から独立し料理上手な奥様とともに「ワインとお料理 ことり」を開く。そんな彼が持って来てくれたワイン、おいしくないわけがなかろう。

ワインとお料理 ことり のFB :https://www.facebook.com/kotoriwine/

彼が山利喜に勤めていた時分、おそらく注文するときの他に話を交わしたことはない。もちろんメニューに書かれている以外のことに会話も及ばない。行列もでき常に多くの客が出入りする銘店のことだ、たまにしか訪れない客との間などそんなものだろう。そして独立したことがどこからか聞こえてくる。森下から両国の間、散歩がてら寄ってみるとさっぱりした素敵な店だ。たまにしか訪れないことには変わりはないが、構えには彼の趣味も現れているし話を弾ませるゆとりもある。サッカー、ロック、スノーボードと興味の対象がずいぶん重なっていることもわかってくる。奥様はスノーボードをしないから、店が休みの平日に、シーズンに何回かお小遣いの範囲で、一人でスキー場に出かけるのだそうだ。「ならば白馬にも来てごらんよ」「機会があったら行きます」、そしてインバウンド客に占拠された2月は宿が取れず、こうして3月になってやって来たというわけだ。

大将は転ぶことに躊躇がない

「コースを案内して先頭を滑っているあんたは気づかないだろうけど、後ろから見てると彼はよく転ぶのよ。アグレッシブだから転ぶことに躊躇がないんだろうね」とはつれあいの弁。昼食時も「鶏が好きなんすよ」と五竜エスカルプラザでローストチキン、「評判らしいすよ」と47スキー場のルイスで野沢菜ピザ、職業柄研究熱心なのであろう、アグレッシブに攻める。そしてまた「なにもここまで降らなくてもいいのに」というほどの大雪となった3月6日の昼、視界もままならない山中で「気をつけて」と私たちは別れた。こういうときは安全第一おっかなびっくり用心深く滑るもんだからフォームも歪んでしまう。彼にならってアグレッシブな滑りを取り戻すべく、ようやく晴れた翌日3月7日、私たち夫婦はだだっ広い栂池高原スキー場に足を運び、前がかりにノーズをガッと下に向けた。こんなことを聞いたことがある。木に登るのを怖がる子は、木から落ちたことのある子ではなく、木に登ったことのない子である。ああ、もうすぐ隠居の身。まだまだピンシャカやれるさ。

投稿者

sanshu

1964年5月、東京は隅田川の東側ほとりに生まれる。何度か転宅するが、南下しながらいつだって隅田川の東側ほとり、現在は深川に居を構える。「四捨五入したら60歳」を機に、「今日の隠居像」を確立するべく修行を始め、2020年夏、フライングして「定年退職」を果たし白馬に念願の別宅「散種荘」を構える。ヌケがよくカッコいい「隠居」とは? 日々、書き散らしながら模索が続く。 そんな徒然をご覧くださるのであれば、トップにある「もうすぐ隠居の身」というロゴをクリックしてみてください。加えて、ホーム画面の青地に白抜き「What am I trying to be?」をクリックするとアーカイブページにも飛べます。また、公開を希望されないコメントを寄せてくださる場合、「非公開希望」とご明記ください。

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