隠居たるもの、近所のよしみでいそいそ出向く。あれは先月の半ばあたりだったろうか。私の暮らす深川の町が例えば2丁目だとすると、すぐ隣の1丁目に住む落語家さんがいる。その昔々亭桃之助師匠が「ようやくトリを任せて貰えるようになりました!」と、新宿末廣亭 上席 夜の部の案内を送ってよこしたのだ。近隣の者が集まる寄合で彼と初めて顔を合わせ、打ち上げ会場となったワインバーのカウンターに並んで親しく落語談義を交わして知己となったのは、今をさかのぼること7年くらい前、ちょうど彼が真打に昇進するかという頃合いだった。それがとうとう古くから続く名門寄席のトリを務めるというのだ。末廣亭といえば明治通りと新宿通りの交差点から一本裏手に入った飲食街のど真ん中、ごった返す週末を避けて2023年11月9日木曜日、私たち夫婦は都営地下鉄新宿線に乗って新宿三丁目駅に駆けつけたのだった。

気がついてみれば、寄席に出向くのも3年10ヶ月ぶり

日々に勤めに出ていた時分、会社の近所にお江戸日本橋亭という小さな寄席があり、そこに昔々亭桃之助を観に仕事帰りによくふらりと立ち寄ったものだ。また彼は一年に一度「江東区出身」を前面に出し、近所の深川江戸資料館のホールで落語会を催していて、それこそ「近所のよしみ」、おっとり刀で駆けつけた。確かに私は落語好きで、そこそこ高座を観に出かけていたわけだが、結構な頻度で彼の落語を聴いてはいたのである。ところがどうだ、すべては新型コロナを境に状況が一変する。最後に寄席に足を運んだのも2020年1月、つまり新型コロナ禍直前の上野 鈴本演芸場が最後だ。そもそも寄席自体が興行を自粛していた時期もあったし、補償もなしに小池百合子都知事に無観客を強要されて「そんな寄席なんざあるかい!」と落語界が敢然と抗議したこともあった。この間、音楽のライブコンサートのチケット代はおそろしく高騰したが(大きな会場で開催される大物外タレだと大体18,000円くらい)、4時間くらい居座れる末廣亭の入場料は今も3,000円(この度はご招待割引2,500円で入れてもらった)だ。バリバリと働いているわけでもない初老にさしかかった者の娯楽にふさわしい。

新宿末廣亭:https://www.suehirotei.com

昔々亭桃之助は「粗忽長屋」でトリをとる

伊勢丹の地下で握り飯を調達し、明治通りを渡って桂花ラーメンに続く末広通りから新宿3丁目に入る。路地のとば口に設置された自動販売機でつれあいが水を買い求めるというから立ち止まって待っていると、白いざっくりとしたトレーナーを着た見覚えのある青年が右肩に大きな荷物を背負って通りかかる。このところブイブイいわしてる人気者の柳亭小痴楽だ。「これから観にいくよ」と声をかけると「あああ、ありがとうございます!」と礼儀正しい。彼を生で最後に観たのは彼がまだ二つ目、2018年のことだったと記憶するが、この5年で大変に上手くなっていて「う〜む」と嬉しく唸る。出演者表に記された「コント山口君と竹田君」を見つけて同年代の者はみな驚くが、どうしてどうして、二人は今も元気はつらつだ。そして「待ってました!」の掛け声を受けて、昔々亭桃之助が高座に上がる。彼がこの日にチョイスした噺は「粗忽長屋」だった。

「粗忽長屋」ににじむ落語観

かつてカウンターに並んで語らったことを想い出す。「俺、実は人情噺をやりたいとは思わないんですよ」彼はそう言った。飄々とくだらない話で笑わせるからこその落語なのであって、もったいぶった御涙頂戴は好きじゃない、というのだ。さすが、とんでもなくくだらないんだけど何度聴いても必ず笑ってしまう自作の「裕次郎物語」を十八番とする昔々亭桃太郎を師匠に選んだだけのことはある。彼のこの落語観は、行き倒れの死体を抱きオロオロ泣きながらこれは自分なんだと言い張った末に、「抱かれてるのは確かに俺だが、抱いてる俺はいってえ誰だろう?」と下げる粗忽者たちの噺「粗忽長屋」にも如実に現れる。例えばこの噺を得意としていた立川談志は「不条理の果てに登場人物の実存が現れる」などと胸を張って暑苦しく演じていたものだ(それを評して古今亭志ん朝は「普通に演れないだけじゃない」と言ったそうだが)。いつだって談志は「不自由な顔」で「自由」を語る俗物だった(あくまでも個人的見解です)。一転して桃之助の「粗忽長屋」は終始とぼけているのである。それがなんとも好ましい。

*終演後、お客さんに挨拶している昔々亭桃之助師匠

居酒屋 鼎

末廣の帰りがけは、道を左にまっすぐ進んだ突き当たり、日本酒とうまい肴、地下の鼎と相場は決まっている(私的にではであるが)。そもそも3年10ヶ月も寄席に来なかったのだし、末廣亭にいたってはどれくらいぶりなのかも思い出せない。この名店を訪れるのだっていつ以来のことになろうか。待てよ、もしかして今は二人の幼い子どもと砂町で暮らす彼と彼女をこの店で引き合わせたときが最後か?しかし、あの二人が結婚したのは2015年秋だぞ?え?だとしたらそれよりも前?などと記憶が迷宮化する。とにかく、新型コロナ禍をはさんでずいぶん前だったことは間違いない。

雰囲気が変わった気がしないでもない。「ザ・居酒屋」という風情の、酒飲みがしみじみゆっくり嗜む店だったと記憶する。それが客層が変わったのか、女性だけのグループも含め若い人たちがテーブルを占めてけっこう騒々しい。だがしかし、もともとこうした店だったにも関わらず、しばらく来ないうち私が「こうあってほしい」というイメージを固定化させただけなのかもしれないし、また、このところ街中の繁盛している居酒屋で飲むこともなくなったから、いわゆる「喧騒」に対する耐性が低下しているのかもしれない。でも近頃の若い人が、なぜか飲むときにことさら声を張り上げて笑うようになったと感じるのも、一方で事実なのかもしれない。どちらにしろ鼎は、スタッフもきびきびしていて相変わらず酒と肴が美味しいいい店だった。

鼎:https://r.gnavi.co.jp/a633000/ *あらためてインターネットで検索してみたら、ネットで容易に予約できるようになっていたので、若いグループ客が多くなったのは間違いないと思われる。

もうひとつ新宿三丁目、どん底

そもそも鼎どころか最後に新宿三丁目で飲んだのだっていつの日のことか。そうか、思い出した。引き合わせたサッカー部の後輩と姪を交えて2度目の食事会、その2次会で若いもん二人を「どん底」(ゴーリキーの作品からとったそういう名前の店がある)に連れていったときだった。なんだ、新宿三丁目で私たちといっしょに飲むと、その若い二人はしばらくして結婚するのか。それにしてもあれだって5年も前の話だぞ?新型コロナのロックダウンも経験したんだ、当然のことそりゃあ色々と様変わりするさ。また、そうでなくちゃあいけないし。そう、飄々とやったらいいんだ。ああ、もうすぐ隠居の身。もったいぶらずにとぼけていこう。

投稿者

sanshu

1964年5月、東京は隅田川の東側ほとりに生まれる。何度か転宅するが、南下しながらいつだって隅田川の東側ほとり、現在は深川に居を構える。「四捨五入したら60歳」を機に、「今日の隠居像」を確立するべく修行を始め、2020年夏、フライングして「定年退職」を果たし白馬に念願の別宅「散種荘」を構える。ヌケがよくカッコいい「隠居」とは? 日々、書き散らしながら模索が続く。 そんな徒然をご覧くださるのであれば、トップにある「もうすぐ隠居の身」というロゴをクリックしてみてください。加えて、ホーム画面の青地に白抜き「What am I trying to be?」をクリックするとアーカイブページにも飛べます。また、公開を希望されないコメントを寄せてくださる場合、「非公開希望」とご明記ください。

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