隠居たるもの、快く疲れて余韻に浸る。2023年11月22日と23日、連日でお声がけいただき、両日ともにいそいそ「パーティー」に足を運んだ。「定年退職」を選択した3年前の7月、世間は新型コロナに慄き閉じこもった。人望の厚い私の「定年退職」である(あくまで個人的見解です)、本来であれば盛大に「送別会」が催されるはずのところ(くれぐれも個人的見解です)、つれあいと二人ひっそりと近所の魚処 若松のカウンターに座り、しみじみビールを酌み交わしたことを今となって思い出す。今年の5月、いわゆる「新型コロナ禍」は明けた。電車に乗っても「マスクつける派」はすでに少数だ。かつての同僚から「みんなで集まろうと思うんですけど、来てくれますか?」と嬉しい電話をもらったのは、過酷な夏をやり過ごしたころだった。

うっかりカビさせたジャケット

いくつか首にあてて青を基調としたネクタイを選ぶ。勤めに出ないとスーツを着る機会はそうそう訪れない。そこにもってきて新型コロナ禍で会合やらパーティーは雲散霧消、世間のドレスコードがカジュアル化していることもあって、スーツはクローゼットの肥やしと化した。しかし11月22日にお招きいただいたパーティーは「フォーマル」なのだ。オーソドックスにダークスーツにしておくか、はたまたパッと明るいものをチョイスするか、残している数着をためつすがめつチェックする。ついでだからと、勤めていた時分に着用していた他の「肥やし」も検分する。するとそのうちの1着、20年ほど前に買い求めた春夏物のジャケットがカビている。それだけ着用していないということではあるのだが、だからといって「即廃棄」というのはどうにも忍びない。かつて馴染みだった近所のクリーニング屋さんに持ち込むと「うちはこういうの得意」とのこと。近隣にマンションが多いからか、風が通らないクローゼットに仕舞われカビてしまったものを、日常茶飯事のように引き受けるのだそうだ。

Light my fire 

ダークスーツで正解だった。会場であるホテルニューオータニに到着してみると、想像以上にものものしい。出席者は340人ほどと聞いた。現職も含め歴代の韓国駐日大使がいる。文部科学事務次官が「誰だこいつ」と私を睨んでいる。日韓議員連盟の河村建夫(山口県の選挙区割変更にともなって自民党から強要され議員は引退されているが)が壇上で挨拶をする。「出世」や「ポスト」に無縁な人生を送ってきた私には明らかに場違い。ではなぜここに身を置いているのか。60周年を迎えたこの教育財団の現在の理事長が大変に尊敬する大学の先輩(「無私」とはこの人のこと)で、その方からご招待をいただいたからだ。図々しく物怖じをしない性分とはいえ、いささか落ちつかない心持ちにあったことは否めない。そのとき、大阪で働く1年上の先輩が私の視界に入る。FBで東京出張をアナウンスしておられたが、これだったのか。考えてみれば教育機関で働く先輩がこうした式典に出席するのは当然のこと。予期せず果たされた滅多に会えない人との再会が、私の心に火をつけた。

式典に先立つシンポジウムで内田樹を引用し、「教育は『共同体が生き延びるため』のものである」と基調講演されたのは、先の春に母校の教授職を退官したばかりの、ひとまわり上の先輩だった。その先輩にしてもどこか落ちつかないところがあったのか、パーティーの食事が始まるやいなや「終わったら時間あるでしょ?」とお誘いくださる。合点承知とばかり、大阪から出張でやってきた先輩も含めた同窓6人が、赤坂見附駅近くの安居酒屋に身を運ぶ。待ってましたとばかり上着を脱いで侃侃諤諤と議論を始め、そこそこ遠くへ帰る方もいるというのに気がつけば11時近く。「明日もあるからほどほどに」との思惑は案の定むなしく、ネクタイを締めたまま、けっこうな量を楽しく飲んでしまったのであった。

ドレスコードは「全裸以外なら何でもオッケー」

もはや2日続けて革靴を履くのは著しくつらい。あれほど「負担」でしかないものを、「この靴は…」などと蘊蓄までたれつつ毎日よくぞ当たり前に履いていたものだ。「ドレスコードとかあるの?もうカタギの勤め人じゃないからさ、笑」と尋ねる私に対し、幹事格の元同僚は「全裸以外なら何でもオッケーです👍」との返答をよこす。上司だったKマネージャーが65歳となり、今年いっぱいで定年退職を迎える。11月23日、今も部下でいる者、部下ではないけど縁がある者、そしてこの日の多数派であるかつて部下であったが今は違うところで働いている者、会社で執り行われるであろうオフィシャルな会とは別に、そんな40人ほどが品川プリンスホテルの品川大飯店に駆けつけ、掛け値なく久しぶりに一堂に会し「慰労会」を催したのだ。

カッパの旗の下

私より6歳年長のKマネージャーと初めて顔を合わせたのは、21年と8ヶ月前の2002年3月末、翌月の入社に備えた事前研修でのことだった。面食らうやら笑っちゃうやら、ここまでおしゃべりな人に初めて会った。のべつまくなしなのだ。このご時世、よくぞ「舌禍事件」を引き起こすことなく定年退職に至ったと感心する。社員規程にある最も早いタイミングで「定年退職」した私は、ことここに関してはKマネージャーの先輩といってもいいのだが、どうしてどうして、いつまでたってもこの人には敵わない。せいぜい前頭部の毛髪の薄くなり具合が、21年たってようやくあの頃のマネージャーに追いついたくらいか(それだってこちらの希望的な思い込みで、「カッパというな!」と嬉しそうにしていたあの頃のマネージャーは、現在の私に比べたってずっと先に進んでいたのかもしれない)。

「生きてたか!今はどうしてる?」あちらこちらからそんな声が聞こえてくる。何度もフジロックに同行した者、ともにスノーボードに出かけた者、プロレスについて語り合った者、動けるうちはフットサルで張り合った者、しょっちゅう酒を酌み交わした者、なんだかみんな面白いやつだった。外資系の完全歩合の営業職で個人プレーが中心、チームを組んで取りかかる仕事ではなかったから「苦楽をともにした」わけではない。ただ、お互いの「苦楽」は常に目の当たりにしていて、助けてもらったこともあれば、どうにもしてやれないこともあった。そして、ほとんどの者がそれぞれの理由で去っていった。そもそもは同僚なのだから、働く場が変わるとそうそうに顔も合わせなくなる。しかし、あのカビてしまったジャケットを頻繁に羽織っていた主に20年から15年前になろうか、ここに集まった連中といっしょに働いていたころがいちばん楽しかった。そして誰もがそう思っていたんじゃなかろうか?同窓会がごとく集まった以上、3次会にまで及ぶことを覚悟していて、それを期待してもいて、やっぱりそうなった。それでも「あの人とあんまり話すことができなかったなぁ…」と残念に思う人だっている。

厚手のダウンジャケット

毛色の違うパーティーの2連チャン、しかもそれぞれで痛飲、明けた金曜日はそりゃあぐったりもしたが、愉快な余韻に浸ってもいた。一連のイベントを終えて26日日曜日の夕刻、ほぼ三週間ぶりに白馬に降り立った。寒気に包まれた山々には雪がしっかりとついていた。私もおろしたばかりの厚手のダウンジャケットに身を包んでいる。ああ、もうすぐ隠居の身。そろそろドレスコードは真冬仕様だ。

投稿者

sanshu

1964年5月、東京は隅田川の東側ほとりに生まれる。何度か転宅するが、南下しながらいつだって隅田川の東側ほとり、現在は深川に居を構える。「四捨五入したら60歳」を機に、「今日の隠居像」を確立するべく修行を始め、2020年夏、フライングして「定年退職」を果たし白馬に念願の別宅「散種荘」を構える。ヌケがよくカッコいい「隠居」とは? 日々、書き散らしながら模索が続く。 そんな徒然をご覧くださるのであれば、トップにある「もうすぐ隠居の身」というロゴをクリックしてみてください。加えて、ホーム画面の青地に白抜き「What am I trying to be?」をクリックするとアーカイブページにも飛べます。また、公開を希望されないコメントを寄せてくださる場合、「非公開希望」とご明記ください。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です