隠居たるもの、故人を偲んで酒を飲む。私たちが「ヤスの不携帯電話」と呼んでいるヤスの携帯電話から着信があった。その時に電話を取ることが能(あた)わず、何事かとすぐに折り返したとしても、ヤスが電話に出ることはまずない。酒が入ってなんか思いついちゃった時に一方的に電話をかけてくるヤスである。ところが、この日は折り返しの電話にすぐに出た。「明日、来るだろ?」月に一度、荒川を渡ってヤスが青砥で営む美容院に出向いて散髪をする。明日がその日だ。「前に話した兄貴のレコードを5枚渡すから、それを入れる袋みたいなやつをさ持ってきてくれ」とのことだった。彼のお兄さんが亡くなってからどれくらいになるだろうか。ヤスはお兄さんと二人兄弟だった。
兄貴は40歳だったから、もう17年になるかな…
ヤスのお兄さんは私たちが通った中学高校の2年上の先輩でもあった。実力が高いブラスバンド部のトランペッターだった。そうか、お兄さんが不慮の事故で亡くなってからもう17年にもなるか…。ポキポキと痩せて背が高いヤスと違い、お兄さんは私と背格好が似ていた。あの時も、「よかったら」と言われて洒落者だったお兄さんのバーバリーのコートをふたつ貰い受けた。もちろん、今でもクローゼットにかかっている。このところヤスは、お母さんが一人で暮らす実家を少しずつ整理しているようで、音楽愛好家だったお兄さんの膨大なレコードコレクションもそこに含まれており、私がレコードプレイヤーを新たに購入したのを聞きつけて「似合いそうなやつを進呈するよ」と言ってくれていたのである。
お前にイトーヨカドーの袋で持って帰らすわけにはいかない
「なんか袋みたいなもの持ってきた?ああ、それならいいね。俺は、お前にイトーヨーカドーの紙袋で持って帰らすわけにはいかない。」得意げに気を使うヤスである。「これね、5枚。まずはディープ・パープルの『LIVE IN JAPAN』、次にジェフ・ベックの『WIRED』ね、(ここからより一層と得意げになる)そいでもって『ベン・ハー』(サントラ盤)、続いて『ドラゴンへの道』(同じくサントラ盤)、最後に渥美二郎の『夢追い酒』だ」どうだと言わんばかりだ。「なんだよ、渥美二郎って!」2人で腹を抱えた。さすがだ、お兄さん…。「できたらジェフ・ベックから聴いてほしい」という。高校1年の時、私たちは一緒に日本武道館でジェフ・ベックを観ている。
ごめん、実はディープ・パープルから聴いてみた
それぞれに40年からの時間を経ているから、レコードの盤面をまずは掃除する。確定申告の書類を作りながら順番に聴くことにした。ヤスには悪いが、ジェフ・ベックの「WIRED」は手持ちのCDで何日か前に聴いたばかりだったので、ディープ・パープルからかけてみた。ところが、いきなり「ハイウェイ・スター」で始まり、リッチー・ブラックモアとイアン・ギランがとにもかくにも凄すぎて、とてもじゃないけど確定申告の作業が進まない…。この時のこの人たち、絶対におかしい。クラクラするから、2枚組の1枚目A面のみで「ベン・ハー」に交代した。オーケストラが奏でる超大作の壮麗なサントラである。そうだよな、お兄さんは基本はクラシックだものな。次にキレッキレのジェフ・ベックを聴く。やはりレコードの方が音に奥行きがあっていい。続いて「ドラゴンへの道」、これがまた珍妙なのだ。風間健という人のナレーションが曲間に入り、「行け!ドラゴンへの道を!」と芝居がかってあらすじを説明するのである。ブームに便乗した日本企画盤だ。小学校3年の時、友だちと都バスに乗って亀戸名画座に「ドラゴン怒りの鉄拳」と合わせた2本立てを観に行ったことを想い出す。すでにブルース・リーは死んでいたけれど、みな狂おしいほどに憧れていた。それから6年後、もうそろそろ16歳になろうかという15歳の春、コソコソと初めて日活ロマンポルノを観たのも同じ亀戸名画座だったっけ…。想い出深い映画館は、とっくの昔になくなった。
悲しさまぎらす この酒を 誰が名付けた 夢追い酒と
確定申告の作業をしながらディープ・パープルを聴くのは諦めるとして、それ以上に頭を悩ませたのが渥美二郎を聴くタイミングである。なにと変わらない日常生活の中で、演歌のアルバムを回すことはいくらなんでもない。だからといって聴かないでいるのはお兄さんに申し訳ない。少なくとも庵で日本酒を飲むような機会でもあればいいのだが…。すると、絶好のタイミングで格好の客が来る。飲まないか?と誘っていた友人が、日本酒を手土産に現れたのである。外で2軒ハシゴした後に我が庵に落ち着き、玉こんにゃくとあたりめを肴にゆっくり飲み直す。もちろんBGMは渥美二郎。1曲目は大ヒット曲「夢追い酒」だ。「あぁなぁた〜 なぁぜなぁぜ 私をす〜てぇたぁ〜♪」ブツクサ言ってたつれあいも含めて3人で思わず合唱してしまう。この曲で「ベストテン」に出演していたものなぁ。いいじゃないか!と興が乗った3曲目、「可愛いおまえ」のサビで今度は一同ひっくり返る。二郎が名調子でこう歌う、「酔っぱらって足腰たたずに泣いている」。狂気すらはらんで強烈に絵が浮かぶ歌詞にすっかり度肝を抜かれた。そして、A面最後を飾る曲の名は「おもいで北千住」!デビュー前、渥実二郎は北千住の流し(彼は“演歌師”と名乗っていたようだが)だったそうだ。なんだか興奮して夜が更ける。
演歌の深い世界にお兄さんに誘(いざな)われたのかもしれない。衝撃的な体験だった。まだまだわかっていないことばかりだな。ありがとうございます。ヤス、今度いっしょに聴こう。ああ、もうすぐ隠居の身。またしても素敵な形見を頂戴いたしました。
*参照:「葛飾にバッタを見た」https://inkyo-soon.com/locust-in-katsushika/