隠居たるもの、夏の料理を初秋に食す。2021年9月9日、朝から雨が降っていた。どうにか昼過ぎにはやんだものの、雲がスッキリ晴れ渡ることはなく、終日いささか汗ばむほどに蒸していた。だからといって転がり始めた季節が逆戻りすることもなく、夜となれば外では一斉に虫が鳴く。涼しくなった一週間前から、開けた窓を通してその声が庵にも届くようになっていた。私たちはテキーラのソーダ割を飲みながらカツオのたたき、そして参鶏湯(サムゲタン)をつついている。夕刻、かつて千住で韓国料理屋を営んでいた知人から参鶏湯をいただいたのだ。私より10歳と少し年上の彼女と顔を合わせたのは17年ぶりくらいになろうか。その17年前、私は彼女に少しまとまったお金を貸していた。

「だって、借りたお金は返さなくちゃいけないでしょ」

この前の日曜日9月5日のこと、突然に彼女から電話があった。「会って話がしたい」という。この17年間、音信らしい音信もなかった。私に連絡してくるのに勇気をふりしぼったに違いない。それに対し「今さらなんの用だ」と訝しむトゲトゲしい気持ちが私の口調には現れていたのだろう。彼女はいきりたって「だって、借りたお金は返さなくちゃいけないでしょ!」と小さく叫んだ。私たちは9月9日の夕方、京橋の明治屋の前で待ち合わせることにした。この間に17年の月日が経ったわけだが、彼女はそれほど老けたようにも見えなかった。相変わらずせかせかした働き者の風情をまき散らして私を探している。私は赤いウィンドブレイカーを羽織っていた。夏でもスーツ姿だった17年前のことを考えれば、多分こちらの落差の方が大きい。あたりをキョロキョロ見回している小柄な彼女に「ご無沙汰しています」と私は声をかけた。彼女は少しだけ驚いて「参鶏湯を作ってきたんです。家で奥さんと食べてください」とにっこり笑った。

「時間がかかっちゃって、ごめんなさい…」

当時、なんとか工面して40万円を用立てた。「時間がかかっちゃって、ごめんなさい…。お金を貸してもらったころ、とにかく大変だった。『不景気な中で少しでも店の売上があがれば』と楽天を始めたんですよね。ここを辛抱したら軌道に乗ってなんとかなるだろうと思ったんだけど、実際は忙しくなるだけで、固定費ばっかり増えて少しも儲からない。そうしているうちに彼(旦那さんのこと。住宅関係の会社を経営していたがバブル崩壊で破綻する。再起を期していたもののうまくいかなかった。私の両親が郷里の後輩となる彼の面倒をよく見ていたので、彼女はその伝手で私に頼みこんできたのである)が脳梗塞で倒れて(聞いていましたか?)、介護になっちゃったでしょ。とにかくお金がかかって、店が始まる前に掃除のアルバイトとか毎日していたんだけど、それでもどうにもならなくて…。荒川まで彼を引きずっていって一緒に死のうと何度か思い詰めてしまったり…。」

「なんとか必ず返して…」

「いつも彼とモーニングを食べに行く喫茶店が近所にあったんです、食事を用意する余裕なんかなかったもんですから。そこのママがね『これ以上はもう無理だよ、生活保護を申請しなさい』って言ってくれて…。店を畳んで、一時的に生活保護をもらえて、少しだけゆっくりして、それでなんとか立て直すことができたんです。今は昼と夜のパートをふたつ掛け持ちしています。彼はもう84歳になりました。ええ、まだ生きているんですよ。身体が丈夫なんでしょうね。病気の影響で言葉も不自由だから、どこまで頭がはっきりしているのかはかわかりませんけど、あなたには『なんとか必ず返して…』と思い出したように口にするんです。お父さんとお母さんにお世話になって迷惑ばかりかけたのに、その上あなたにまで…という気持ちが強いんでしょうね。『今日、あなたに会うんだ』と言ったらすごく嬉しそうだった。本当にこんなに時間がかかっちゃって、ごめんなさい。それにまだ足りないんですけど、まず30万円お返しします。ありがとうございました。」

289時間分のバイト料

聞き及ぶ生活ぶりで30万円を貯蓄するのは並大抵のことではない。これだけの時間を要するのも道理である。「少しずつ返しにくればいいではないか」というのは正論に過ぎる。これくらいにまとまった金額にならないと連絡する勇気も湧かなかったに違いない。私は「これで『いつか返さなきゃ』という肩の荷が下りたんじゃないですか?私は『仕方ない、このお金は帰ってこない』と諦めていましたよ。とはいえ、苦々しく思っていたのも事実です。それも今日できれいさっぱり消えました。だから、お互いスッキリしたということで終わりにしましょう。残っている分はもう気になさらないでください。私はもう仕事を辞めてしまいましたから、お金を貸すことなぞ今後できませんが、これから何かあったらまた連絡をください」と痩せ我慢してカッコつけておいた。この10月1日からと定められた東京の最低賃金は時給にして1,041円である。その時給からすればおよそ289時間分である。この週、私は応募したアルバイトを2軒とも断られていた。ありがたいことに、これで焦る必要がなくなった。

「きのう何食べた?」を見ながら参鶏湯をつつく

「6時からあのビルで掃除の仕事をするんです。新しいビルだから楽ですよ」と晴れやかな顔をする彼女と別れ、私は参鶏湯を手に帰宅する。参鶏湯は、鶏肉の中に高麗人参・もち米・松の実などを詰めて煮込んだ料理だ。夏バテ時の疲労回復食として食されることが多い。土用丑の日のウナギみたいなものだ。つれあいにことの顛末を話し、今さらながらハマっている「きのう何食べた?」(2019年にテレビ東京で放映された、中年ゲイカップルの日常を悲喜こもごも繊細に描写した連続ドラマ。Netflixで配信している)を見ながら、彼女が心を込めてこしらえてくれた参鶏湯に舌鼓をうつ。そういえば「生活保護に投入するくらいなら税金は猫に使え」とぬかした「人でなし」がいたっけ、「メンタリスト」っていう肩書きだっけ?まるっきり「自己責任」を無視するべきではない。しかし、「自己責任」だけが唯一の「責任」のように捉えられる社会はささくれだっていてあまりにも居心地が悪い。ブルーハーツの名曲「1000のバイオリン」にこんな歌詞がある。「誰かに金を貸してた気がする そんなことはもうどうでもいいのだ」ああ、もうすぐ隠居の身。人間、そんなに捨てたもんじゃない。

投稿者

sanshu

1964年5月、東京は隅田川の東側ほとりに生まれる。何度か転宅するが、南下しながらいつだって隅田川の東側ほとり、現在は深川に居を構える。「四捨五入したら60歳」を機に、「今日の隠居像」を確立するべく修行を始め、2020年夏、フライングして「定年退職」を果たし白馬に念願の別宅「散種荘」を構える。ヌケがよくカッコいい「隠居」とは? 日々、書き散らしながら模索が続く。 そんな徒然をご覧くださるのであれば、トップにある「もうすぐ隠居の身」というロゴをクリックしてみてください。加えて、ホーム画面の青地に白抜き「What am I trying to be?」をクリックするとアーカイブページにも飛べます。また、公開を希望されないコメントを寄せてくださる場合、「非公開希望」とご明記ください。

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